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素朴な海岸の桟橋

土佐日記の道でした

​自転車で通っている道が

日常に埋もれた歴史を拾い上げて。
高槻から都大路をへて、下鴨へつづく数奇なめぐり合わせ

今から千年以上も昔、承平五年(九三五年)。
土佐での任務を終えた紀貫之は、京都の我が家を目指して船を進めていました。その旅の途中、現在の大阪府高槻市道鵜町あたりで船を降り、「今夜は鵜殿という場所に泊まる」と書き残したのが、名作『土佐日記』の一節です。
貫之はその後、鵜殿から陸路で都大路を通り、鴨川を渡って下鴨のすぐ対岸にあった邸宅(現在の京都御苑南東・仙洞御所付近にいまも「紀氏遺蹟碑」の石碑が残ります)へと帰っていきました。

それから長い時が流れた現代。
偶然にもこの「高槻の鵜殿」と「京都の下鴨」という両方の地で生計を営むことになった私には、現在と過去を結ぶ歴史古道に深い縁を感じ、ここの新天地を「鵜殿都大路」と名付け、ここに集大成を築くことにします。

実はもうひとつ、不思議なめぐり合わせがあります。私が若い時に都を出て飛行機で着陸した町が、貫之の旅の出発点でありました、あの「土佐の地」で青春の四年間を過ごしていましたが、その当時には。そのような思いは一つも浮かび上がってきませんでした。さらに、京都の生まれた町実家の前は、かつての都大路の歴史を今に伝える「葵祭」の牛車が、毎年新緑の風とともに通り過ぎる北大路通りでした。

土佐、鵜殿、そして都大路をへて下鴨へ――。
都から離れた高槻の地で人生の集大成をきづこうとして、かつて貫之がたどった都への道を渡り、今、京都の実家へと繋がっています。日常に埋もれている歴史のロマンが、ここでは、道の下、約1m以浅にかっての踏み跡が残っていると思われます。日本各地を、縄文人から、弥生人、歴史を作った日本人が歩いて踏み跡を残しています。そんな、思いが、年老いた老人に、千年の時を旅する重みが、ここ淀川の川面に沿って吹く悠久の歴史の風となって、いま流れていきました。2026.8.25

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